ばん馬の人工授精について考える

ばんえい競馬史に残る名馬ハクリュウ(父タンブー)は
凍結精液により生産された
写真は「蹄跡(つめあと)」<昭和58年刊行北海道馬産史編集員会>709頁より転載

 今春からばんえい牧場十勝が民間として初めて人工授精の設備を開設し、人工授精用の精液の販売を始めました。【詳細案内はこちら】
今シーズンは冷蔵のみの取り扱いと追っての案内されていましたが、手法はどうあれ人工授精用の設備を運営するのは民間での初めての試みで、画期的なことです。今までばん馬の人工授精を主に担っていたのは、独立行政法人の家畜改良センター十勝牧場です。これはF1<雑種一代>の生産や、純血種の改良を目的として、純血種雄馬の種を安価に「配布」してきたものです。ばんえい競走馬生産のために、事業として「精液販売」が行われるようになったことに驚いています。これを機に「競走馬の人工授精」について考えてみたいと思います。

 ばん馬の人工授精と比較するために、サラブレッドの規定についておさらいをしておきたいと思います。馬術馬生産が盛んなヨーロッパと比較して、日本は馬の生産医療に関しては後進国です。それは日本で一番生産頭数の多いサラブレッドにおいて、人工授精による生産が認められていないので需要が無いためです。

「サラブレッドは本交配で生産された産駒しか登録できない」という国際的な約束事は平地競馬のファンにはよく知られています。ではどこが定めたルールなのかというと、サラブレッドの登録に関する世界共通のルール作りのために設けられている 国際血統書委員会(ISBC)という機関が、人工授精、胎児移植ほかあらゆる人工的な手段によるサラブレ ッド生産を禁止しているのです。

 そして国際血統書委員会(ISBC)の日本の出先機関である(公財)ジャパン・スタッドブック・インターナショナルに血統登録されていない馬は、競走馬登録ができません。つまり人工授精による産駒はたとえ父母がサラブレッドであっても競走馬にはなれません。

 ばん馬が「人工授精産駒の競走馬登録がOK」だという事実は、平地競馬ファンにとっては非常に不思議な感覚だと思います。私も最初は違和感が先に立ちました。ですが、馬産事情を見回してみると本交配(自然交配)でなければいけないというこだわりはほぼサラブレッドのみなのです。ほぼ…と書いたのは、どうやら一部のエリアの純血アラブ種は本交配しか登録が認められないらしいのです。しっかりと裏がとれなかったので、ほぼ…で失礼いたします。(ソースはチャットGPT…すみません…。なお、アラブ種も多くの地域で人工授精産駒の品種登録が許可されています)

ではなぜNGなのか?ジャパン・スタッドブック・インターナショナルのホームページのQ&Aによると
その理由として、
 (1)伝統的にサラブレッドの生産の基本は、産駒が自然の妊娠により生産されること。
 (2)国際的に競馬規程は人工的な方法で生まれた馬を競走から排除していること。
 (3)遺伝子的悪影響の可能性もあること。
 (4)産業界全体、特に国際取引に与える商業的影響が大きいこと。
 (5)大多数のサラブレッド生産者団体が禁止の継続を支持していること。
 (6)血統の多様性が失われることで、競馬の魅力に悪影響を及ぼすこと。

と記載されています。しかし、上記の理由はいずれも今までそうだったから…そう決められてきたから…という理由がメインです。そして懸念されている悪影響については明確なルールと運用があれば回避できるような気もするのです。現にジャパン・スタッドブック・インターナショナルのホームページ上で記載されている「登録のあゆみ」に書かれているテキストを読むと、人工授精については常に議論の俎上には登っていて、

人工授精について、人工授精の禁止を解除するか否かについては、国際血統書委員会でもたびたび議題になっており、血液型による親子鑑定、あるいは最近ではDNAの利用も徐々に用いられる方向に進んでおり、故意または錯誤による親子関係の取り違いの防止という意味はなくなってきている。
しかしながら、現在の血統書委員会の見解としては、特定の種雄馬の産駒が集中的に増え、ただでさえ狭いサラブレッド産業がますます特定の血統に集中する恐れがあり、それによって近親交配の弊害、体質の虚弱あるいは、疾病、故障などの多発が危惧され、いったんこのようなことが生じると、サラブレッドという品種の存続に重大な危機が生じるという見解が多数を占め、もし解除するのであれば、国際的な合意がなければ踏み切れないというのが依然として委員会の公式認識である。

とあります。<引用元:(公財)ジャパン・スタッドブック・インターナショナル ホームページ>

 サラブレッドが本交配にこだわるのは"国際的な合意"これが主な理由なのだろうな…と思います。遺伝子の偏りや商業的影響に関しては、生産頭数や使用期限、または地域などに厳格なルールを設定して運用できれば回避できるはずです。とは言え、例えば「ディープインパクトは上限2000頭までです。種付け期間は供用開始から10年間です。それ以上の数量あるいは期間を過ぎた人工授精の産駒はサラブレッドとして認めません」と規定して、関係者は納得できるのか?またその上限の数字はだれが定めるのか?定めた上限の公平性は共有できるのか?といった問題に直面します。あるいは生産牧場としては後進のエリアではそもそも高度な人工授精の設備や獣医師を手配できないといった問題も出てくるかもしれません。サラブレッドの競走馬は遺伝子の付加価値が高すぎるうえに、あらゆる地域で生産されていることから明確なルール、つまり"国際的な合意"が取れないのだろうと思います。世界中で実施できて、かつ誰しも納得できるルールが本交配なのです。

 実際、このコラムを書く際に「なぜサラは人工授精がNGなのか?」と改めて質問をさせていただいた日高の獣医さんは、感染症予防や事故防止、種付けが集中する人気種牡馬の負担軽減といった観点から考えると本当は人工授精のほうが良いのだけどね。とお話してくださいました。

 サラブレッド以外の品種では人工授精は多いに活用されています。JRAのホームページに非常に興味深いブログがありました。「馬における生産補助医療」というテキストです。人工授精についての基本的な紹介がわかりやすく書かれています。詳しくはリンク先をご一読いただければと思いますが、かいつまんで言うと人工授精は生・冷蔵・凍結の三タイプの精液を状況に合わせて使い分けます。

受胎率は 生>冷蔵>凍結
保存性は 凍結>冷蔵>生

 この辺は生鮮食品と一緒です。ばんえい十勝牧場が凍結の取り扱いをやめて冷蔵で対応しているのは、受胎率の問題ではないかと推測します。受胎率の高い「生」というのは本当に生もので、家畜改良センターの精液配布申し込みの案内を読むと、交配日当日の午前10時までに申し込みの連絡をして、11時半~12時までの間に取りに行って(つまり10時~11時までの間に精採取)保冷容器を持参して、保冷しながらすぐに持ち帰る…とあります。一刻も早く使ってください!という感じです。当然遠方の牧場の場合は冷蔵になりクール便になります。冷蔵の場合、上記に紹介したJRAのブログによると48時間は受胎が期待できるそうで、これなら広範囲に輸送が可能です。そして凍結は半永久的に保管できますが、保管設備が必要ですし、受胎率が下がってしまいます。また、凍結精液による人工授精の受胎率は種雄馬の個体差も大きい(向かない種雄馬もいる)のだそうです。

凍結だとどのくらい受胎率なのか?古い記録ですが冷凍精液について「蹄跡(つめあと)」には受胎率の成績が下記のように記載されていました。

1968~1977年の10年間で
149頭に凍結精液で種付
受胎は48頭
不受胎が18頭
他の種付けへ変更した馬が40頭
変更後も不受胎だった馬が43頭

 この記録が残る凍結精液の使用は、シーズン最初の1回目~2回目の発情でしか使わず、そこで受胎しなかった馬は本交配あるいは凍結以外の人工授精に切り替えているので、単純に48/149という結果ではないのですが、初回~2回の凍結精液による交配の受胎率は32.2%という低い数字になります。ただ、今から半世紀前の記録ですので、現在はもっと良績なはずです。実施している頭数が少ないのですが、熊本で試みられている重種のホルモン剤を使用した凍結精液による人工授精では63.6%になっているとありました。ただ、いずれにしても高い技術が必要で、かつ受胎率が低いのは事実です。

 現在、人工授精を積極的に行っているのはスポーツホースの分野で、岩手の遠野では人工授精による生産が盛んです。また、フランスから競技会向けの乗用馬の凍結精液の輸入も行われています。「遠野市における乗用馬の人工授精成績」という資料には、人工授精による成績が報告されています。ただし、ここでも凍結精液を使用した人工授精の受胎率は著しく低いと記載されています。

 おまけとして……凍結精液による人工授精は、現在よりも昔の方が盛んだったようで、1960年代後半から70年代にかけてはかなりの数量の凍結精液が配布されており、下記のような記録も残っています。銅庭は鉄鯉産駒、楓石はタンブー産駒で、いずれも現在のばんえい競走馬の4~5代前に名前をみかける人気種雄馬でした。その他、凍結精液に供用された種雄馬には、鉄鯉、タンブー、ウルバンといった、このサイトでも紹介している名種雄馬の名前を見かけます。

種雄馬別凍結精液生産本数および配布本数(1971年~1982年)
馬名銅庭足梯織桃跡新ダンブー楓石マジェスティック栄情潤竹
品種ブルトンブルトンブルトンブルトンペルシュロンペルシュロンペルシュロンペルシュロンペルシュロン
生年196819711974197919631968197619771979
生産本数7869924834394821141647
配布本数7008923920394501111036
「蹄跡(つめあと)」<昭和58年刊行北海道馬産史編集員会>P711より。ペルシュロンとブルトンで配布実績がある馬を抜粋。生年は西暦に書き替えました。

 人工授精のメリットとしては

・馬に負担がかからない
・感染症が予防できる
・種付け時における事故の予防
・一度に多くの種付けができる
・馬の輸送のコストや労力がかからない

 といったところが挙げられると思います。ばん馬は競走馬として優秀であればあるほど現役が長く、また大型馬であるがゆえに心臓や蹄など種付け時における馬体への負担も大きいので、名競走馬だった種雄馬は短命な事が多いのです。そして生産エリアが全道、東北、九州と広範囲で、つけたい種雄馬を選ぶことも難しい。これらの問題を、人工授精のメリットはかなり緩和してくれるのではないかと思います。さらに、妊娠馬の流産を誘発する馬パラチフスといった怖い感染症のリスクも減ります。また、蹄や足腰に不安があるような、本交配が難しい馬が種雄馬として活躍できる可能性も出てきます。

 いいことづくめ!と言いたいところですが…「一度に多くの種付けができる」「馬の輸送の労力とコストがかからない」ということは一部の種雄馬に種付けが集中する可能性がでてきます。さらに言うと凍結精液は半永久的に保存が可能なので、すでに亡くなってしまった種雄馬の種もつけることができてしまう…という問題もあります。実際にタンブーや鉄鯉には、死後凍結精液で誕生した産駒が存在します。

 サラブレッドが人工授精をNGとしている理由
(3)遺伝子的悪影響の可能性もあること。
(6)血統の多様性が失われることで、競馬の魅力に悪影響を及ぼすこと。

 この二つが懸念されることになります。とりわけ遺伝子的悪影響の可能性は深刻なのではないでしょうか。もともとばんえい競馬は世界でも日本の北海道にしかない競馬で、特殊な競馬に特化するべく生産され続けていることで、遺伝子のプールは狭まってきていると考えられます。その中で、一部の人気種雄馬に種付けが集中するとどうなるか…また、亡くなった種雄馬の凍結精液を無制限に使用できる状態にするとどうなるのか…。ここは真剣に議論したほうがいい問題ではないでしょうか。

 ばん馬も、競走馬はオーナーに購入されてレースに出走します。サラブレッドほど極端ではないにせよ、遺伝子の付加価値が明確に存在します。売れる産駒を取りたいとなれば、人気種雄馬に種付けが集中する可能性も高まります。

 現在、凍結精液は受胎率があまり良くなく、積極的に利用されている状況ではなさそうですが、今後様々な技術の向上により利用される機会が増えていくことと思います。なぜなら凍結精液も含め、人工授精そのものに関しては繁殖馬にとってメリットが多く、大いに活用したほうが良い技術だからです。しかし、人工授精、特に時間的な制約が無い凍結精液の利用に関しては何らかの規制は必要だと思います。国際的に生産が行われているサラブレッドでは得られ難い"合意"も、日本国内のみで行われ、競走馬として使用しているのは帯広競馬場一か所のみであるばんえい競走馬ならば、共通のルールを見出すことが可能なのでは?と思うのです。